企画責任者: 大澤良 (筑波大学)・竹中明夫 (国立環境研)
野生植物の個体群や種の存続性の分析・予測には、個体群の遺伝的多様性を 明らかにし、各個体群でどのように遺伝子は受け渡されているのか, 環境との相互作用のなかでどのように自然選択がかかっているのか, 近交弱勢や遺伝的浮動はどれだけ遺伝構造に影響しているのかなどを 把握する必要がある。本エコゲノムプロジェクトは、これまでに多くの 研究蓄積がある他殖性の多年生草本サクラソウをモデルとして,生態学と 集団遺伝学の協力によりこれらの問題の解明を試みるものである.
本シンポジウムでは,プロジェクトのこれまでの成果を報告し、これらを 土台としながら個体群の存続性の予測をするにはどのような手法が有効か, 他殖性の多年生草本全般を想定しながら議論したい.
司会:竹中明夫(国立環境研)
司会:大澤良
総合討論の時間では,個別の研究発表についての議論ではなく, エコゲノムプロジェクトというものの展望・可能性や,保全の実際とのかかわりなどに ついての議論を中心に展開する.
2000年に未来環境創造型基礎研究推進制度研究課題として採択されて実質的なスタートを きったサクラソウの「エコゲノムプロジェクト」は、送粉者との生物間相互作用および 繁殖特性・種子特性が支配する遺伝子動態と個体群動態のダイナミックな連環についての 基礎科学的な理解の深化とともに、野生植物の保全戦略構築への寄与をめざす統合的な 研究プロジェクトである。すでに比較的多くの生物学的・生態学的知見が蓄積している サクラソウを他殖性野生植物のモデルとして取り上げ、QTLに支配される形質の一種と みることのできる適応度成分や送粉昆虫との相互作用に係わる適応的形質を連鎖地図に 位置づけることをめざす。一方で、野外調査等で取得した詳細な生態データにもとづいて 有性生殖、クローン成長およびそれらに伴う遺伝子流動をモデル化し、絶滅における 遺伝的過程と個体群過程のからまりあいを解明するとともに絶滅リスクと遺伝的多様性に 係わる予測手法を確立することをめざす。今後のさらなる発展を期して、プロジェクトの 背景とめざすところを紹介する。
津村義彦(森林総研)
分子遺伝学的な技術の進展は目を見張るものがある。また塩基配列データも膨大なデータが 多くの生物種で登録されている。この技術と情報をうまく組み合わせることにより、 野生生物種の遺伝解析が容易に行えるようになってきた。特に希少種については、 遺伝的多様性の大きさが将来の世代の存続にも係わる重要な問題となる。 DNAレベルの解析では種内の遺伝的多様性、集団間の遺伝的分化程度、近親交配の 程度などを定量化でき、量的形質との関連も明らかにできるため、保全研究にとっては 特に有用な情報を得ることができる。
本発表では希少種の保全研究にどのような遺伝的アプローチを取るべきかを解説する。 また将来にわたって取るべき情報と今後の技術の進展により得られる知見等についても 議論したい。
本城正憲(筑波大院生命環境)
生物種は固有の進化的プロセスを経た地域集団から構成されており、種の保全におい ては、各集団の遺伝的特徴や遺伝的関係を考慮して保全することが重要である。本研 究では、絶滅危惧植物サクラソウを対象として、種子や栄養繁殖体による歴史的な分 布拡大過程を反映する葉緑体DNA、花粉による集団間の遺伝子交流を反映するマイク ロサテライトと異なる特色を持つ遺伝マーカーを指標として、国内の分布域全域にわ たる70集団の遺伝的変異を把握することを試みた。
日本全国から30個の葉緑体DNAハプロタイプが見出され、それらは大きく3系統に分化 していた。ハプロタイプの多くは地域特異的に分布していたが、中には北海道と中国 地方に隔離分布するものや中部地方以北に広域分布するものもあった。異なる母系に 属する集団が20km圏内といった比較的狭い範囲に隣接して存在する地域が認められた。 マイクロサテライト5座を指標として集団間の遺伝的関係について分析した結果、集 団間の地理的距離に応じて遺伝距離も大きくなる傾向があり、地理的に近い地域集団 は遺伝的にも類似していることが示された。これらの遺伝構造は、過去から現在まで のさまざまな進化的プロセスを反映した結果であると考えられ、人為的な遺伝的撹乱 が生じないように留意しながらそれぞれの変異を保全していく必要があるといえる。 もし衰退した集団の回復を目的として植物体を他の場所から移入する場合には、生態 的・形態的特徴などに加え、本研究で明らかにされた遺伝的変異を踏まえて行うこと が必要である。各地域集団の遺伝的特徴に関する情報は、盗掘された株や系統保存さ れている株の出自の検証、および他地域に由来する株の野外への逸出を把握するうえ でも有用であろう。
※集団サイズと遺伝的多様性の関係についても述べる予定です。
北本尚子(筑波大院生命環境)
サクラソウ集団内の遺伝的多様性を保全するための基礎的知見を得ることを目的として、 筑波大学八ヶ岳演習林内に自生するサクラソウ集団を対象に、@花粉と種子の動きを反映 するマイクロサテライトマーカー(SSR)と、種子の動きを反映する葉緑体DNA(cpDNA)多型を 用いて遺伝的変異の空間分布を明らかにするとともに、A遺伝構造の形成・維持過程に大きな 影響を及ぼす花粉流動を調査した。
7本の沢沿い分集団と1つの非沢沿い分集団に分布する383ラメットの遺伝子型を決定した。 SSRを指標とした分集団間の遺伝的な分化程度はΘn=0.006と非常に低かったことから、 分集団間で遺伝子流動が生じていることが示唆された。一方、cpDNAで見つかった4つの ハプロタイプの出現頻度は沢間で大きく異なっていたことから、沢間で種子の移動が制限されて いると推察された。これらのことは、現在の空間的遺伝構造は沢間で生じる花粉流動によって 維持されていることを示唆している。
次に、沢沿いの30*120mを調査プロットとし、SSR8遺伝子座を用いて父性解析を行った。 30m以内に潜在的な交配相手が多く分布する高密度地区では、小花の開花時期により花粉の 散布距離に違いが見られた。すなわち、開花密度の低い開花初期と後期では45〜80mの比較的 長距離の花粉流動が生じていたのに対して、開花密度の高い開花中期では平均3mと短い範囲で 花粉流動が生じていた。一方、30m以内に交配相手が少ない低密度地区では、開花期間を とおして平均11m、最大70mの花粉流動が見られた。このことから、花粉の散布距離は 開花密度に強く依存することが示唆された。花粉媒介者であるマルハナバチの飛行距離が 開花密度に依存することを考えあわせると、開花密度の低いときに生じる花粉の長距離散布は 沢間の遺伝的分化も抑制している可能性があると推察された。
(補足)
通常の種子散布距離が短く近傍に血縁個体が集中分布しやすいサクラソウ集団において、 個体の開花期がばらつくことによって生じるこの花粉の長距離散布は近親交配を回避し 集団内のヘテロ接合度を高く維持するうえで重要な役割を担っていると考えられる。
花粉親を特定できた298実生の95%が30m以内に分布し、平均開花日のずれが8日以内の 個体間の交配によって生じていることが分かった。
集団内の開花ペアのうち30m以内に分布し、平均開花日のずれが8日以内のペアは全体の 51%であることから、約半分のペアは潜在的には交配可能であるにもかかわらず、 物理的な距離が離れていたり(32%)、開花期がずれていたり(8%)、またその両方の効果が あわさる(9%)ことによって交配が生じにくいと推察された。また、45mを超える花粉の 長距離散布は集団の開花初期と後期に生じていた。このように集団内の遺伝子流動には、 個体間の距離だけでなく開花フェノロジーも影響していることが示された。
また、9遺伝子座のSSRの遺伝子型が全て一致するラメットのペアが2組、同じ沢に沿って 50m以上離れた所に分布していたことから、サクラソウのクローン成長器官が沢に沿って 移動することが示された。
分集団内の空間的遺伝構造に関しては、非沢沿い分集団においてcpDNAハプロタイプの 集中分布が認められたのに対し、沢沿いの分集団ではSSR、cpDNAともに構造が認められ なかった。このことから沢沿いの分集団内では沢の増水によって種子が2次散布される ことにより、遺伝構造の形成が妨げられていると考えられた。
安島美穂・鷲谷いづみ(東京大学農学生命科学研究科)
植物にとって種子は,唯一の可動体であるとともに,生育に不適な環境を回避するための手段でもある.そのため,その時空間的分散に関する戦略は多岐にわたっており,植物個体群の維持メカニズムの解明や存続可能性の推定,あるいは遺伝子流動の把握や遺伝的多様性の評価などにおいては,種子分散とその後の種子による個体の更新の過程を詳細に理解することが不可欠である.サクラソウエコ・ゲノムプロジェクトにおいては,種子に関わる生活史戦略の詳細な解明がなされたが,本講演では,それらのうち空間的・時間的分散に関わる特性について報告する.
サクラソウの種子は,空間的分散のための特別なしかけをもたず,一次的には,親植物から15cm以内に約80%の種子が散布された.長距離分散は,稀な出水や斜面崩壊などに伴っておきることが予想される.
一方,発芽特性に関しては,サクラソウ種子は散布時の休眠状態が,冷湿処理および変温条件によって解除されること,冷湿処理の効果は,その回数にも依存しており,複数回の処理により発芽率がさらに向上することなどが発芽試験により確かめられた.これらの特性は,発芽に不斉一性をもたらし,永続的シードバンクの形成に寄与するものと考えられるが,自生地での播種実験,および種子埋土実験によってもそれが裏付けられた.裸地の地表下0.5cmに播種した種子では,複数年にわたって実生発生がみられ,発芽に好適な条件下でも発芽は不斉一に起きることが確かめられた.一方,2cm以深においた種子では,発芽はほとんど見られず,約60%の種子が少なくとも2年間生残した.サクラソウの種子は,発芽特性によって発芽の適地とタイミングを選択して実生を発生するか,もしくは永続的シードバンクを形成することによって時間的に広く分散し,確実な次世代の実生更新のための危険分散がなされていることが示唆された.
○永井美穂子・西廣淳・鷲谷いづみ(東大院・農学生命科学)
異型花柱性植物は基本的に自家・同型不和合性である。部分的に自殖可能な花型を持つ異型花柱性植物では、送粉効率が低下した時の個体群の運命は自殖率および近交弱勢の程度に依存すると予想される。すなわち、自殖による近交弱勢が強くなければ、自殖後代の遺伝子型が個体群内で頻度を増し、自殖できない花型が消失して異型花柱性という繁殖システムの崩壊を招く。一方、近交弱勢が非常に強ければ世代の更新が妨げられ、個体群の縮小や消失をもたらす。現在サクラソウは多くの個体群で送粉環境が悪化しており、保全のためには各個体群のおかれた状況に応じて2つの危険性のうちどちらの可能性が高いのかを判断する必要がある。そこで、サクラソウの生活史段階を通じて発現する近交弱勢の程度を明らかにするため、北海道日高地方の1個体群において自殖処理と花型間他殖処理の間で受精・結実や制御環境および野外での次世代の生存・成長を比較した。
その結果、長花柱型の一部のジェネットで部分的な自家和合性が認められたが、制御環境下における自殖後代の発芽率は他殖後代と比べて著しく低く、生育初期には自殖・近親交配家系に1遺伝子座支配と推定される葉緑体欠損による死亡が高頻度で観察された。生き残った個体のサイズも自殖後代のほうが他殖後代より有意に小さかった。自生地へ播種した場合にも、実生の発生数や発芽後3-4年目の個体サイズは自殖後代の方が小さく、開花に達する個体も少なかった。すなわち、自殖可能なジェネットでも生育初期に発現する劣性致死遺伝子や成長・繁殖段階に発現する弱有害遺伝子により0.9以上という強い近交弱勢がはたらくことが明らかとなった。
よって、急に分断化されて送粉が不十分になったサクラソウ個体群では、近交弱勢による世代更新の失敗から個体群が衰退する可能性が高いと推測される。危機を回避するためには、結実だけでなく実生の定着状況をモニタリングして適切な管理を行う必要がある。
石濱史子(東大院農)
自然個体群では、遺伝子流動の範囲が限られていることなどにより、血縁個体が 集中分布することが多い。このような場合、近隣個体間の交配は近親交配となり、 受精後の生活史段階で近交弱勢が発現する可能性が高い。従って、受精後過程で 自然選択が作用した後では、遺伝子流動に対する近隣個体間の交配の寄与が相対的に 低下し、実質的な遺伝子散布距離が大きくなる可能性がある。このような自然選択の 作用後の遺伝子流動を、有効な遺伝子流動と呼ぶ。有効な遺伝子流動の範囲を把握する ことは、個体群間の遺伝的分化を考える上で不可欠である。また、生息地分断化などに よって個体群が有効な遺伝子流動の範囲以下に縮小している場合には、種子生産の低下に 繋がる可能性もあり、保全上も重要である。
サクラソウの北海道日高地方の自生地において、定着個体の遺伝構造に基づいた有効な 遺伝子流動の間接推定と、実験個体群での父性解析による実生段階での花粉流動と 種子散布の直接推定を行った。マイクロサテライトマーカー10座の遺伝子型から、 半径15m以内の個体間で、有意に正の血縁度が推定された。血縁度の指数に近交弱勢が 比例し、自殖で生じた子の適応度低下を90%と仮定した計算から、近隣個体間での近交弱勢の 強さを推定した。特に血縁度が高い(>0.05) 、親間距離が5m以内の交配による子の適応度 低下は、約19%と推定された。父性解析による花粉流動の直接推定では、散布距離の標準偏差と 近傍サイズは7.61m と41.2個体、遺伝構造からの間接推定による有効な遺伝子流動では それぞれ15.7 m と50.9個体であり、有効な遺伝子流動の方が範囲が広い傾向だった。 これらの結果から、自然個体群での血縁構造に由来した近交弱勢が、遺伝子散布距離に 影響している可能性が示唆された。
上野真義(森林総研)・田口由利子・永井美穂子・大澤良・津村義彦・鷲谷いづみ
個体の適応度は個体群の存続に大きく影響することから、適応度に関する情報は個体群の存続についてモデル構築を行う際には重要である。適応度を減少させる近交弱勢と他殖弱勢は絶滅危惧種個体群の保全や復元に際して考慮すべき事項である。近交弱勢は個体数の減少にともない表面化し、致死因子や弱有害遺伝子がホモ接合体になる確率の増加が原因と考えられている。一方で他殖弱勢は局所的環境に適応した個体群間に由来する個体の交配後代で表れることがあり、適応した対立遺伝子や共適応遺伝子複合体(coadapted gene complex)との関係が示唆されている。しかしながらこれらの遺伝的機構は完全に解明されているわけではない。従って近交弱勢と他殖弱勢に関してその機構を明らかにすることにより、個体群の持つ遺伝的変異や遺伝構造と絶滅確率の関係をより正確に定量化することができる可能性がある。
適応度に関連する形質は一般に複数の遺伝子座(Quantitative Trait Loci: QTL)が関与し環境の影響も受けて量的な変異を示す。このようなQTLを解析するにはDNAマーカーでゲノム全体の連鎖地図を構築し、対象とする量的形質に連鎖したマーカーを解析する方法(QTL解析)が有効である。個々のDNAマーカーは自然選択に対して中立であるが、連鎖を利用することによって単独のDNAマーカーでは困難な量的形質に関する十分な洞察を得ることが可能となる。
本研究ではサクラソウ保全の観点から適応度に関連する諸形質を連鎖地図上に把握することを目標にしている。そのための家系を育成し、両親間で多くの多型が期待できるマイクロサテライトマーカーを主に用いて連鎖地図の構築を行っている。本発表では現在までの進歩状況を報告し連鎖地図を用いることにより得られる知見と保全への応用に関して議論する。