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投稿論文の査読のしかたを考える

Updated on 2001-01-29

学術雑誌に投稿された論文は,担当編集者が査読者(校閲者とも呼ぶ)に 読んで評価してもらい,これを参考にしながら受理したり改訂を指示したり 却下したりします. 東北大学の酒井さんのページ に, このプロセスの詳細についての解説 があります.

査読者は,一編の論文あたり2人のことが多いようです. 学術雑誌の平均受理率を40%とし,どの論文も2人の査読者がチェックすると すると,世に出る論文の数の5倍の査読レポートが書かれている計算になります.

論文の書き方についてはいろいろな成書もあり,インターネット上でもさまざまな 情報を得ることができます(たとえば上記の酒井さんの 「若手研究者のお経」 が有名). なのに,その5倍も書かれているはずの査読レポートの書き方の心得の ようなものは,寡聞にして知りません(※).考えるに,査読をするような人なら それなりの見識と経験を持っているはずで,今さら論文のチェックのしかた など人から習う必要はない,ということなのかもしれません.

でも,少なくとも私はそれなりの見識も経験もないままに自己流の査読レポートを 書いてきました(私に当たった人,すみません). 参考にできるのは,自分が投稿した論文に対する査読レポートぐらいでした. 最近では,雑誌の編集委員としての最終レポートまで自己流で書いていました (これまた,私に当たった人,すみません).

こんなんでいいんだろうか,という不安はいつもあります. そこで,自分はどのように査読レポートを書いているかを公開して 意見を求めるのがよいのではないかと思ってこんな文章を書いてみました. コメントをお寄せいただけるとたいへん嬉しいです.

※ はたして私が寡聞にして知らないだけでした.とある方から, Journal of Sedimental Research という雑誌のページに よい査読のしかたについての文章 が載っているよ,という情報をお寄せいただきました. とても手際よくまとめられた文章です.


編集委員はなぜ査読者にチェックを依頼するのか

まず,そもそもなぜ学術雑誌の編集委員は自分だけで掲載の可否を決めずに 査読者にチェックを依頼するのか考えてみます.思いつくのは

といったところです.

1番め,学問的な価値を適切に判断する,というところは雑誌の質を維持する ためにもっともたいせつな部分です.価値の低い論文がたくさん載る雑誌の評価は さがり,読まれることは少なくなるいっぽうで,たいしたことない論文を書いた 時の投稿先の候補にあげられることが多くなり,ますます価値の低い論文が集まり, さらに雑誌の評価がさがる,という悪循環に陥る危険があります.

多くの雑誌では,校閲に協力してくれた査読者の名前を年に一度ぐらいの頻度で 掲載して謝意を表しています.ある雑誌では,以前,受理され掲載された論文の 査読者のみを載せていました.これでは,価値の低い論文を却下するという重要 な仕事を尊重していないことになります.その由の意見をその雑誌の編集者に 伝えたところ,すべての査読者の名前を載せるようになりました. 当然のことだと思います.

論文の学問的な価値を適切に判断するには,その分野の背景や研究の現状 についての知識が必要です.限られた人数の編集委員のなかに,そのような 知識を持った人がいるとは限らないので,適当な査読者を選んでチェックを 依頼することになります.

2番目,判断の恣意性を減らすというのも,雑誌の信頼性の維持のためにたいせつな ポイントです.専門家であっても,必ずしも客観的・自動的に研究の価値を 決められるものではありません.どうしても主観的な判断による部分があります. 一人だけの判断だと,その人の主観にのみ依存することになって,投稿者としても 納得できないことがままあります.複数の査読者の意見に基づいて判断することで, 信頼性が増すでしょう.

3番めの,複数の目で見て見落としを減らすというのは,まあ当たり前 のことですね.


なにをチェックするのか

次に,査読者は具体的に何をどうチェックしたらよいのかを考えてみます. チェックするべきポイントは,大きく分けてふたつあると思います. 形式的適格性と学問的価値です.

形式的適格性

形式的適格性とは,要は論文としての態をなしているかどうかです. 論理は通っているか,データの提示方法は適切か,統計処理は適切か, などのチェックが必要です.

こうしたチェックは,かなり客観的に行えます.査読者に頼らずとも 編集者だけでもきることですが,複数の人間が見ることで見落としや 恣意性を減らすことができるでしょう.

学問的価値

学問的価値とは,その論文がどれだけ科学の内容を豊かにするかということだろうと 思います.その判断は,学問の現状や,人々の問題意識のありかたに依存するでしょう.

この判断は非常に難しいです. まず,明らかに新しくないことは,印刷に値しないことになっています. たとえば,ピタゴラスの定理の再発見は印刷に値しません.

でも,同じ調査を違う場所でやったらどうか.あるいは,材料の生物を変えてやった 研究にどれだけの価値があるかどうかは一概に言えません. 同じことをやったけど結果が違った,というのであれば,これはきっと 意味があります. では,結果が同じだったらまったく価値がないかというと,そんなことは ないと思います.一例しか報告がなかった現象は,2つめの報告により 一般性を増すでしょう.そのことは価値があります. では,6例の報告があるときの7例めは?難しいですね.

また,新しければなんでもいいかというと,当然,そうではありません. 学問的価値がないのでだれもやらなかったテーマの研究は, 新しいとはいえ,やはり価値がないということになります.

というわけで,新しさだけでは決まらない,学問的価値というものを 判断しなくてはならなくなります.結局は,査読者の「見識」という, よくわからないものに頼るしかないということでしょう.

「よくわからないもの」といっても,決していい加減なものという意味 ではありません.同じ論文に対する複数の人の査読レポートでの評価は, はっきりと正の相関を示すと思います.専門家ならある程度同意できるような 学問的価値の大小というものが,たしかに存在するのだと思います. ただし,それが社会全体に通用する価値か,同業者集団内だけで通用するものか, というのはまた別の問題ですが.


私が校閲をするときに注意していること

私が校閲するときに注意しているポイントを書き連ねてみます.

一読したあと,一歩引いて全体を見る

各パラグラフの中では論理が通っているが,全体としての筋がきちんと できてない論文というのもままあります.けれども,一文,一文を追っかけて 読んでいるうちに,全体の論理の整合性に気が回らなくなってしまうことが あります.

私は,通読したあと,要するに何にもとづいて何を主張している論文なのか, 粗筋を言ってみることにしています.たいてい一回読んだだけでは粗筋を 言えるようにはならず,繰り返し読むことになります.

粗筋をつかもうとすると,筋が通っていない,議論がデータを踏まえていない, といった難点が見えてきやすいですし,論理構成の再編のような改善の方向も 見えやすくなります.そもそも粗筋がつかみようがない論文は, 論理が通っておらず,掲載するには不十分なものです.

いいところを探す

私のところに校閲依頼が来はじめたころ,自分も研究者として認知されるように なったかとはしゃいでしまいました.そして,論文の問題点をするどく指摘して 自分の能力を示そう,なんて妙に力んであら探しをしてたきらいがありました (私に当たった人,重ね重ねすみません).困ったものです.

その後反省して,最初から却下のためにあら探しをするような読み方はせず, おもしろい内容を期待して,まずはいいところを探すような読み方をしようと 心がけています.

判断することをおそれない.

学問的に価値があるかどうかを判断するのが,査読者に求められる一番 大きな役割ですが,その難しさは上にも書いたとおりです. 私が時としてやってしまいそうになり,みずからをいましめている 「べからず集」をあげてみます.

判断を示すことをおそれてはいけません.といっても,私のように自分に 自信がない人間にとっては勇気がいることです.最後は自分を校閲者に指名した 編集委員の責任だ!ぐらいに開き直るしかありません.

予断を持たない

冷静な判断のために,予断を排するのは当然のことです. でも,すでに多くの論文を書いている研究者からの投稿であれば, それなりのレベルなのだろうと思ってしまいがちですし,逆に,聞いたことも ない人で,引用文献のリストを見ても本人の論文が引用されていないと, まともに論文を書ける人なんだろうか,という気持ちを持ってしまったりします. これはまずいですね.研究初心者の段階で投稿した論文がそんな予断をもって 判断されたらとてもいやなはずです.

また,あの(エライ)人の論文を却下するわけにはいかないからと,不適格な内容の 論文に受理の査読レポートを書くなどというのは最悪でしょう.校閲者としての最低限の モラルに反することだと思います.

なるべく前向きな改善意見を書く

掲載に値すると思われる論文でも,そうでない論文でも,なるべく改善意見を 書くようにしています.よい論文には,よりよくしてもらうための参考意見を書こう, 却下すべきだと思う論文でも,今後の参考にしてもらえるような意見を書こう, と心がけています.

じゅうぶんに整理されていない論文の場合,筆者の意を汲みとり,データの意味 を考え直して改善策を示すには非常に多くのエネルギーを必要とします. そうしてあらたな解析方法を提案したり,議論の論点を提示したりして, 著者がそれにしたがって改訂したならば,査読者は実質的に限りなく共著者に 近くなります.それでも,査読者の業績には一切ならず,割の合わない仕事では あります.

それでも,よい論文の生産に貢献できることは嬉しいことです. スマートな改善意見が書けると,自分でも気分いいですし. ただ,投稿された状態での可否の判断に徹するという立場もありでしょう. それは査読者それぞれでよいのだろうと思います.

私はどうかというと,なるべく親切な査読者であろうとしてるけど, 時間が切迫していたり,内容の判読が困難な論文だったりすると 不親切な査読者になってしまいます.いいかげんですね.

「自分流」を押しつけない

投稿された論文はあくまで著者のものであって,査読者のものではありません. 査読者は,自分ならそう書かないなと思っても,やみくもに自分流を押しつけては いけないでしょう.

ここらへんも,校閲依頼が来るようになった最初のころには妙に力んで いたかも知れません.反省.

私ならこうするでしょうという参考意見を,理由をつけて述べるのは よいことだと思いますが,可能な選択肢のなかから選ぶのはあくまでも著者です. 著者の実験法,調査方法,解析方法などが誤りを含んでいると考えるなら, そのことは当然指摘すべきです.でもいくつかの可能な選択肢がある なかで著者の選んだものが気に入らないからといって,否定しないように 気をつけています.

英語の善し悪しと内容の善し悪しを区別する

使用言語が英語の雑誌に投稿された,英語を母語としない人(たとえば多くの日本人) からの論文の場合,英語が少々不自然でも,意味が分かるなら,その意味内容について コメントするように気をつけています.内容さえちゃんとしているなら,英語はあとで 改善可能ですから.論理が通っていない流暢な文章を直すより,言語表現は不自然だが 論理が通っている文章を直すほうがはるかに容易だと思います.

英語が下手だという理由で却下の査読レポートを書くなどというのは, 校閲者としてはサボってることになるんではないかな,と考えています.

そもそも私のようにいいかげんな英語しか使えない人間が,英語の自然,不自然を 判断できるわけもありません.意味が通っているかどうかが分かるだけです. これは,英語が母語ではないことのメリットかも知れません. 私の母語である日本語で書かれた論文だったら,不自然な言語表現には直感的に 反応してしまい,内容の判断もバイアスしやすくなってしまうでしょう.


当初の予想通り,とりとめもない文章になってしまいました. 私の頭の中がとりとめもないのでしょうがありません. それでも,書くことで多少の整理にはなったようです. ご意見,ご感想などありましたらぜひお寄せください.


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