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連載 植物の不思議な当たり前 第10回

花の命は短いか

この文章は, 公益社団法人日本アロマ環境協会(AEAJ)の機関誌(AEAJ)の原稿として 執筆したものです。印刷物にこのまま掲載されるとは限りません。

updated on 2014-10-07

「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」とは、作家の林芙美子(1903-1951)が好んで色紙に書いた言葉です。楽しかった若いときは短く、つらいことが多かった人生を、花の命の短さに託したものと言われています。そんな愚痴が書かれた色紙をもらっても元気が出ないという気もしますが、もちろん人生について考えるのはこの連載のテーマではありません。作家の生涯ではなく花の命のほうに注目してみましょう。

花の命は短いといっても、種類によって咲いている期間には長短があります。私が年末に買ってきた園芸品種のランは、ひとつの花が2ヶ月以上も咲き続け、冬の室内を明るくしてくれました。いっぽう短命な花というと、たとえばアサガオは早朝に咲いて昼前には閉じてしまいます。一日で終わってしまう花は、一日花(いちにちばな)と呼ばれます。アサガオが朝の花の儚さならば、いっぽうで夜の花の儚さも。秋に赤い実をつけるカラスウリは、一夜限りの花を咲かせます(写真1)。レース状に広がった白い花は暗くなってから開きはじめて夜に活動するガを招き、朝には丸まってしまいます。このほか、サボテンの月下美人も夜の一日花で、こちらは原産地ではコウモリが訪れるようです。オシロイバナもおなじく一夜限りの花ですが、午後明るいうちから咲き始めます(写真2)。英語名のFour-o'clock は、咲き始める時刻によるものでしょう。

写真1 夏の夜、暗くなってから開くカラスウリの花。花びらの縁がレース状になっている。

写真2 オシロイバナ

それぞれの花は短命でも、あとからあとから次の花が咲いてくれれば、長いあいだ楽しめます。アサガオはまさにそうですね。一方、ソメイヨシノの花は数日間は咲いていますが、一斉に咲いて一斉に散ってしまうので、「花の命は短くて」という印象があります。

ところで、花が散ったらそれで命が尽きるのかというと、必ずしもそうではありません。むしろ花が終わってからが本番とも言えます。花は種を残すための器官です。咲いているあいだに雄しべから散布された花粉が雌しべにつくと、種が作られはじめます。植物の種類によって、数週間でできあがるものもあれば、何ヶ月以上もかかるもものあります。たとえば雑木林のクヌギは特に長い例です。花は春先に咲き、秋に丸いドングリができますが、このドングリは、実は前年の春に咲いた花が、一年半もかけて成熟したものです(写真3)。

写真3 クヌギの若いドングリ。8月に撮影。開花からすでに1年数ヶ月たっていて、もう2ヶ月ほどで成熟する。

なお、花粉を受けとれずに種を作れない花は、残念ながらそこまでです。また、雄花と雌花をつける植物では、花粉を飛ばしたあとの雄花は用済みです。大量の花粉を飛ばすスギも雄花と雌花をつけるタイプで、花粉の季節が終わったスギの下には、小さな雄花がたくさん落ちています。このほか、飾りのためだけの花をつける種類もあります。ガクアジサイなどアジサイの仲間はたくさんの小さな花が集まって咲きますが、外側にはガクが発達した装飾花と呼ばれる花をつけます(写真4)。この花は遠くから虫を呼ぶ役目だけを果たし、種は作りません。雄しべや雌しべをつける花が花粉のやりとりをしたら、装飾花は用済みです。

写真4 アジサイの園芸品種。外側のガクが発達した花は装飾化。内側の花はごく小さな花びらが開き、雄しべと雌しべを伸ばしている。

ここで一度「花のいのち」に戻りましょう。文学的な擬人化はともかく、生き物として植物を見たとき、ひとつの花を人間のように生まれたり死んだりするものと捉えるのは、ちょっと違うような気がします。植物は、枝や葉といった部品が付け加わったり枯れ落ちたりしながら、個体全体として生き続けます。大きな木も枝を少しずつ増やし、その枝がそれぞれに太くなることでできあがります。成長の途中ではたくさんの葉を広げては散らすことを繰り返していますし、花も実も散っていったでしょう。

動物では、成長の途中で部品を足したり引いたりということはとても限られます。毛や羽毛が生え変わったり、シカの角が生え変わったりといった例が思い浮かびますが、いずれも落ちるのは生きた組織ではありません。まして、足や頭という部品の数を増やすことで成長していく動物は見当たりません。同じような構造の部品の数を増やすという植物にとっては当たり前の成長パターンは、動物にはとても真似ができません。花のようにすぐに落ちてしまう部品もありますが、それは命が短いというよりも、部品の役割に応じた存続時間の長短だと見るべきでしょう。花や実が散ったり、秋に葉を落としたりというように、いわば積極的に落とす部品のほか、体の一部が食べられたり折れたりしても、あるいは病気になった葉や枝を落としても、個体は生き延びることができます。これも同じような部品がつながってできている、植物ならではの芸当です。

最後にふたたび「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」について。この一節は、じつはもう少し長い詩の一部であることが最近になって分かったそうです。この前後は以下のようなものでした。

「(前略)…/生きてゐる幸福は/あなたも知ってゐる/私も知ってゐる/花のいのちはみじかくて/苦しきことのみ多かれど/風も吹くなり/雲も光るなり」

花が咲くまでも咲いたあともいろいろあるけれど、色々な花が咲くこの世に生をうけたことは、やはり幸福なことですね。


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