アベリアの花から花へ飛んでいたメスグロヒョウモンの雌 (写真)。よい具合に背景がぼけた。
先週の後半から喉が痛くなった。金曜の夜、熱っぽいので体温を計ったらは37.8度あった。 風邪だ。週末は家でごろごろして過ごす。庭の畑に出てみるが、太陽光に当たるのが体に負担で 早々に木陰に撤退する。木漏れ日のなかでシャジンの仲間が咲いていた (写真)。
こういう状態なので、やたらと本が読める。読みかけの本、買ったままになっていた本、一度読んだ本。 集中力はないので、手軽な本ばかりを何冊も読んだ。
次は何を読もうかなと思って書棚の前に立ち、目に入った 老人力を手にとってぱらぱら眺めた。加齢にともなって○○ができなくなることを、 「○○ができない」という能力が身についたと捉えてしまう。それらを総称して老人力と呼ぶ。 もちろん冗談だが、気持ちがすごく楽になる。
私は忘れ物をする力にかなり自信があるが、それ以上に自慢なのは老眼力。40歳過ぎからめきめきとついてきた。 メガネをかけなければ読みたくないものは文字として認識できないという素晴らしい力だ。 旅先でも、メガネがないと地図もガイドブックも切符の座席指定すらも読めない。心細さが募って旅情満点。
週休3日が2週続いた。ゆとりだ。 仕事も学校も土曜は午前中のみ(半ドンと言った)が基本だったころから比べると、 週休2日になったときはものすごくゆとりがある気がしたものだ。 すぐにそれにも慣れてしまったが。
近くの池に佇むアオサギ(写真)。何を見ているのか。 背景に白く見えているのはコサギだ。 やがてコサギとアオサギのあいだをカルガモの群れが横切っていった (写真)。
土曜日の夕方、西の空の巻雲が赤く染まっていた (写真)。
庭で勝手に生えているヤブマメの花が咲いている (写真)。 土の中に閉鎖花を作るので、一年生だがほぼ確実に毎年同じ場所に生えてくるようだ。 ちょうどその上あたりでエゴノキが実をつけている (写真)。
先週末からの家の不要品の処分は、正確には仕分けて袋に入れたりしばったりして 処分の準備が整ったのであって、処分が済んだわけではない。 燃やせるゴミはすでに出したが、その他のゴミは、 それぞれの収集日が来るまで家の中に置いておくしかない。 燃えないごみと古紙の山が家を出る日を待っている。 もちろん、家を出ても世の中から消え去りはしない。それぞれに処理を経て資源になったり 永続的なゴミであり続けたりする。 じゅうぶんに活用されたあとでゴミとなるのなら納得もいくが、 無駄な買い物であった場合は後ろめたい。 そんな後ろめたさもまじったゴミだ。
この前の週末に家の不要品をいくらか始末した。その後、勢いがついてしまってとまらない。 家のなかを見回す目が、つねに捨てられるものを探している。ひょっとして、 組織の人員整理担当になると、こんな目で人を見るようになってしまうのだろうか。 特定の発想の習慣化というのは怖いものだ。 これに比べれば、つい駄ジャレを考えてしまう発想の習慣化などは罪がない。
道端のツルボの写真の続き。 望遠ズームで撮って、背景に他の個体がボケて入り込むようにしてみた (写真)。 そこにミツバチ(たぶん)がやってきたり (写真)、 セセリチョウが密を吸っていたり (写真)。
センニンソウももう一枚 (写真)。
マメの仲間もいろいろと花が咲いたり実がなったりしている。 ツルアズキのねじれた花 (写真)とか、 コマツナギ (写真)とか。 コマツナギの背景のボケ味がよい。クズは毛だらけのさやが大きくなってきた (写真)。 もう一枚には、アリ(右)やカメムシの仲間(左)のシルエットが写っている (写真)。 暗がりのカメムシはなにやら悪だくみをしていそうだ。 影絵芝居の一場面にも見える。
芝生にまじって細いキノコが生えている。ベニセンコウタケ(たぶん) (写真)。 周囲のシバと比べると小ささが分かる。
ことしも庭の畑にキツネノタイマツが出てきた (写真)。 去年と同じところなので、地中で菌糸が生きているのだろう。 ネットで調べたら観察記録がみつかった(> キツネノタイマツの観察)。しっかりした内容だ。小学生が作ったページのようで、驚く。
台風は来るし、先週東京で足首をひねったし、連休はおとなしく過ごすことにする。 書庫の整理をして、処分する本を縛った。 そのほかにもいろいろ思い切って捨てる。 数年間触らずにほこりをかぶっていたようなものは、どんどん捨てる。 だいぶすっきりした。
職場の構内のアカマツ林は8月に下草刈りが入る。秋に咲く植物はこれで刈られてしまうが、 放っておくとササ籔になってしまう。 刈り残されたところでぽつぽつと咲いてる植物がいる。 ツルボ(写真)だの、 センニンソウ (写真)だの。 センニンソウはクレマチスの仲間で、花弁のように見えるのは萼。 ウドの花も咲いている(写真)。
職場の机のそばに置いてあるゴミ箱の中身を、建物のなかのゴミの集積所に捨て、ゴミ箱は そこにおいてトイレに行き、帰りに持ってかえろうとすると、ほぼ確実にゴミ箱の回収を忘れてしまう。 同じ失敗を何度も何度も繰り返している。一念発起して、 ゴミ箱を置いた後トイレに行くあいだ、ずっと頭の中にゴミ箱を置いておくことを試みた。 効果はあって忘れずに持って帰れたが、せっかく心を自由に遊ばせることができる時間に、 ひたすらゴミ箱、ゴミ箱と頭のなかで唱え続けているのはとてもつまらなかった。 そうか、こんなに心の解放時間は大切なものだったのか。 ゴミ箱ぐらい忘れたっていいじゃないか。 あとで気づいたら取りに行けばいいんだから。
その後、ゴミを捨てに行くこととトイレに行くことを 一緒にしなければよいことに気付いた。
クズの花が咲いているところに近寄ると (写真)甘い香りが漂っている。 花序にもっと近づくと毛だらけなのがよく見える (写真)。 秋には、やはり毛だらけのサヤができる(2010年12月の写真)。
植え込みの低木のあいだから、ダンドボロギクが頭を出してつぼみをつけていた (写真)。 花は咲いてもまったく見栄えのするものではない。つぼみのほうがしまりがあってよいかもしれない。
あと、昆虫の写真を2枚。 フェンスにとまっていたトノサマバッタ (写真)、 アメリカセンダングサにとまったツマグロヒョウモン (写真)。 ツマグロヒョウモンは分布が北上する傾向があり、温暖化の影響かなどとも言われているようだ。 もし今までは寒さのために北上できなかったのなら、たとえば冬の寒さが厳しい年にはまた南に戻るはず。 どうなんだろう?
来週は集中講義で木曜まで不在。自分でプログラムを書いてデータ処理やグラフ化を自動化したり、 生態学っぽい簡単なシミュレーションをしてみたり。 プログラムを書く過程で、自分が今までいかにものを適当に考えていたかに気付いた、 などという感想文を見るとうれしくなる。
庭のアシタバの花序を、キアゲハの幼虫がせっせと食べている (写真)。 葉はだいたい食べてしまったようだ。 一本に5,6匹がいて、蛹になる前に食べ物がなくなりそうだが、 スズメだのシジュウカラだのがしじゅうやってくる庭なので、 鳥に食べられる心配のほうが大きいかも。
夕方の空で、さまざまな雲がさまざまに色付いていた (写真1、 写真2、 写真3)。 そんな空を背景に、ハシブトガラスが飛んでいった (写真1、 写真2)
アメリカの高齢者に、人生で後悔していることはなにかと尋ねたところ、 無駄に心配し過ぎたとこという答えが多かったのだそうだ (参考)。 とはいえ、あとから無駄な心配だったと思うのは、 事故を起こさなかったから自動車保険が無駄だったと思うようなものではないかな… と考えるのは心配症の自己弁護か。