午後になり、久しぶりに日が射してきた。 庭で咲いているマンリョウ (写真1、 写真2)。 秋の赤い実と比べて、花はあまり愛でられることはないが、なかなかスマートなデザインだと思う。
最近思いついた設定。今から100年余り後に巨大隕石が地球に衝突することが分かったとというもの。 白亜紀の終わり、6600万年前に落下してほとんどの恐竜を絶滅させたクラス(10km級)で、 地球から打ち上げたものをぶつけて進路を変えるのは無理なほど大きいとする。 (これが妥当な仮定かは分からない。100年先なら、ごくわずかな進路変更で衝突を回避できるかも)。 100年余り後というのがポイントで、現在生きている人のほとんどはその時には生きていない。 新しく子供が生まれないようにすれば、衝突による人間の死亡を避けることが可能だ。 また、思い切り人口を減らしてから地下シェルターにこもり、衝突から10年程度はそこで暮らして、 地表が安定してから徐々に文明を再興することも考えられる。 でも、縮小・避難・再生のプロセスの具体化には山のように課題があるはずだ。 衝突までにどのように人間社会を縮小していくか。衝突後の地球と文明に残したい物はなにか。 技術的な課題に加えて人間の価値観が問われる。 いろいろな小説が書けそうだ。自分では書けないけど。
まだ30度になるかならないかぐらいだが、じめじめとした蒸し暑さ。 この夏、まだエアコンをつけたことはないが、そろそろだろうか。
しばらく前から家の庭でミョウガが採れている。花が咲く前に採れるとよいのだが、 土からちょっと顔を覗かせたところをつい見逃してしまい、花が咲いてそれと気付いたりする (写真)。 下に垂れているのはすでに咲き終わった花、今咲いている花の付け根のあたりにツンと突き出て いるのはこれから咲く花のつぼみ。
きのうのつくばは36.5ミリの降水。梅雨はまだ明けない。 きょうも午前中に6ミリ降ったが、そのあと青空も見えた。
庭にいたナミアゲハ(写真)。 近寄って翅の鱗粉を撮ってみる (写真)。
朝、庭の畑のゴーヤの棚にいたアブラゼミ (写真)。 今朝羽化したばかりらしくまだ色が薄いし、近寄っても動かない。 すぐ右に抜け殻が見えている。このセミのものだろう。 さらに近寄ってアップ(写真)。
新型コロナウイルスに感染した場合の致死率は高齢者になると急激に高まるという データを見ると、自分も高齢者の入り口の前あたりにいることを意識する。 高齢になると致死率が高まるのは、別にCOVID-19に限らない。どの病気でも同様だろう。 加齢にともなう免疫機能の低下とともに、病気に弱くなるのは避けられない。 だから人はみな、ほどほどの年齢で人生を終える。いまさら慌てることではない。 年齢以外の要因をみずから背負い込んで免疫機能を低下させるのを避けつつ、 天寿をまっとうできるように願うのみ。
このところ、家のまわりにオナガが何羽もあつまってやかましく鳴いている(写真)。 この写真は3羽写っているが、全部で5羽の群れのようだ。幼鳥と親鳥、それとヘルパーか。 幼鳥(左)は頭が白っぽい(写真) 幼鳥に餌を与えているらしき様子(写真)。
庭にいたムラサキツバメ(写真1、 写真2)。 もちろん鳥のツバメではなく、シジミチョウの仲間。ツバメシジミという種があり、これにムラサキがつき、シジミが省略されて ムラサキツバメ。ツバメは後翅の突起をツバメの尾に見立てたもの。 翅の上面が青紫色なのだが、残念ながらこれまで撮れたことがない。
庭のミョウガの葉の上にいたトウキョウヒメハンミョウ (写真)。右前肢が途中からとれている。 口がいかつい (写真)。 中国ないしは台湾から入った外来種だとか。
ラベンダーにトモンハナバチが来ていた (写真)。 ぶれているが、ちょうど花にとまる寸前の様子 (写真)。 腹に黄色い紋が左右5個ずつ、合計10個あるのでトモン(十紋)。ただし雄は左右6個ずつで12個。 もう一枚、近くのトウモロコシの葉の上にとまったところ (写真)。 なかなかかっこよい姿だ。
きょうもジョギングは抑えて4キロ。前日よりも快調に脚が出る。ここまで慎重に戻してきたが、 もはや故障者リストからはずれたと見てよいか。
朝食のために庭のシソをとろうとしたら、飛び立ってまたシソに止まったガ (写真)。 すぐに家にもどってカメラを持ち出し、写真を撮って後で調べたところ、ベニフキノメイガ。 幼虫はシソなどシソ科の植物を食べるようだ。 アップの写真 (写真)。
ぎっくり腰はおおむね回復した。月曜日は4キロほど歩いて異常なし。 きょうはスピードを控えながらのジョギング4キロで異常なし。
家の近くの歩道脇に生えているちいさなアカメガシワが花を咲かせた(写真)。 アカメガシワは雄株と雌株がある。これは雄花。 目ざとくアリが来ていた(写真)。 だぶんクロヤマアリ。
組織に属していたころ、家での読書の9割がたは小説だった。 給料をもらっていれば、やりたいことだけやって生きていくというわけにはいかない。 自分はずいぶん恵まれた環境にあったとは思うものの、ストレスもなかったわけではない。 そんな日常から脱却するのに、一瞬で他の世界へ連れて行ってくれる小説はありがたい。
退職してあきらかにストレスは減った。やりたいことをやりたい時にできる自由と、 やりたくないことをやらない自由を手にした。 そうしたら、読書はかならずしも小説でなくてもよくなった。 今は小説とそれ以外と、半々ぐらいになった。
腰をいためたおかげで不本意なステイ・ホーム。 そのほか、数ヶ月前から左肩に肩関節周囲炎(いわゆる五十肩)とか、 数年前からの外傷性白内障による左眼の近視とか、いろいろ不調はあるものの、 おおよそ楽しく生きることはできている。
家の2階の窓から見たムクゲの花 (写真1、 写真2)。 中国原産。
相変わらず断続的に雨が降り、風が吹く。 ぎっくり腰はゆっくりと回復中。 今朝は、上体をほぼまっすぐにして立つことができた。 ところで、おととしに治りかけで調子に乗って再度悪化させたときの詳細は「様子」に 書かれていない。 野球のバットを振ったのがいけなかった気もするが確かではない。 失敗の記録を残すことは大事だ。
雄花ばかり咲かせていた庭の畑のゴーヤが、ようやく雌花をつけた (写真)。 虫を呼ぶ花には、しばしばその虫を待ち構えるクモがいる。 ごくごく小さなクモが、花弁の縁に写っている (写真)。
NHKのBSプレミアムで再放送中のはね駒を見ている。1986年の朝ドラだ。 数日前の放送のなかで、「わたしたち」という言葉の意味をめぐるやりとりがあった。 主人公のおりん(斉藤由貴)と、相思相愛の仲の源造(渡辺謙)との会話の場面。 おりんは、源造のとある申し出に対し、自分とその家族の意味で「わたしたちのために…」 と感謝する。そこで源蔵は、自分の申し出はその「わたしたち」のためではない、と言う。 源造とおりんの二人の「わたしたち」のために、というのが源造の気持ちだった。 ここで、むかし少しだけ勉強したトンガ語の人称代名詞のことを思い出した。 トンガ語の一人称複数には、2人か3人以上かという区別と、聞き手を含むか含まないかの 区別、2×2の4つの代名詞がある。 言語によってものごとの捉え方・整理のしかたが ちがうものだと実感したことが今も記憶に残っている。 なお、これはトンガ語に限ったことではなく、 トンガ語やハワイ語を含むポリネシア諸語ではほぼ共通して見られる現象のようだ。 上のやりとりの例だと、最初のおりんの言う 「わたしたち」は聞き手(源造)を含まない3人以上の一人称複数(mau)、源造の言う「わたしたち」は 自分と聞き手(おりん)の2人だけを指す一人称複数(ta)ということになる。
3月以来、ずいぶん走って足腰が強くなったつもりでいたが、 ちょっとした動きの拍子でぎっくり腰。不注意で負荷をかけてしまった。 前はいつだったか調べてみると、おととしの9月のことであった。 (2018年9月18日の「様子」)。 スーパーで棚の下のほうのものを取ろうとして往生したのは覚えている。 このときよりは、今回はだいぶ軽症のようだ。 ただし油断禁物。 「様子」の続きを読むと、治ってきたところで調子にのって、再度悪化させたようだ。 いかにも私がやりそうなことだ。同じ失敗を繰り返さないように注意しよう。
ラベンダーの蜜を吸うイチモンジセセリ (写真1、 写真2)。 どちらの写真も口吻がぶれて写っているが、これは(おそらく)蜜を求めて、 せわしなく口吻を動かしているため。 口吻には神経も筋肉もあって、ずいぶん自在に動かしているように見える。
庭の畑のオクラの花が咲き始めた (写真)。 収穫もそう遠くない。
トウモロコシの花序にいたカメムシ (写真)。 ホソハリカメムシか、ハリカメムシか。
東京の感染者が増え、しばらくゼロだった茨城でもぽつぽつ見つかっている。 締めていたのを緩めたら増えたということは、締めた効果があったということではある。 あれで効果がなかったらがっかりだから、その意味ではよいニュース。 もちろん副作用の小さい締め方を探すのが難問であることに変わりはない。